忠臣
武家作法が発達したのは江戸時代。
家康が石田三成のような家臣をほっし、儒教を武士階級に学ばせたのがきっかけといわれています。
(儒教は官僚的で文官のもの。しかし武官であり政治家である武士がそれを学んだミラクル。都合よく編集している日本のクオリティ(外国文化を自国風にアレンジすることには定評あり)なのです)
しかし、戦国時代にも忠臣はいる。
たしかに戦国後期ともなると「主君は七回変えないと一人前の武士とはいわないぜ」といわんばかりの藤堂高虎などがいましたが、それでも忠臣はいたのです!!
今回ご紹介するのは、毛利家の中心『渡辺通(わたなべかよう)』
通の父・勝は元就が毛利家当主となる際に野心をだしてしまい、元就に粛清されてしまいます。
元服前の通はそのまま郡山を出奔。以下、流浪の人となります。
しかし、元就がその勢力を地道にかつ確実に伸ばしていると、通の面倒を見てくれている山内直通とよしみを結ぶことにあいなりました。
そして山内氏の口ぞえにより、毛利に復命。
その際に元服し、恩人たる山内氏の名から一字拝命し通と名乗るのです。
そしてついに月山富山城の戦い。
尼子vs大内という戦国有数の巨大勢力の戦いながら、実質戦っているのは毛利と援軍として訪れた陶軍のみ。しかし、いっけん心もとないこの面子であるが方や歴戦の勇にして謀将毛利元就、方や西国無双と誉れ高い陶隆房。見事快進撃を続けました。
が、大内の援軍本体がくると、なぜか情勢は反転。
大内軍は後退を余儀なくされたのです。
その際、しんがりを任されたのが毛利元就。
一門ではなく傘下という立場であった毛利元就が、大内に命じられたのです。
しんがりはまず、生きて帰ってこれません。
自分たちを追いかけてくるのは、士気が高ぶっている尼子の軍勢です。
毛利元就は生涯でもっとも、窮地というにふさわしい状況に追いやられます。
そのとき、通は元就の馬轡をつかんでいいました。
「殿! 甲冑をお脱ぎください」
「ならん! そんなみすぼらしいまねが出来るか! この前立を目印に毛利の者が集まるのだぞ!!」
「いいえ、脱いでいただきます」
通は元就に迫りました。
「殿、私の粗末な甲冑と交換くだされ!」
「それでは通、お前が狙われるぞ!」
「そのためにです!!」
通は元就から甲冑を取り、敵陣に向かって掛けていきました。
「毛利元就はここにいるぞ!!」
元就はなんとか生き延びます。
そして手伝い戦争のむなしさをかみ締め、打倒大内に踏み切ったといわれています。
そして渡辺家は末永く、毛利の家臣として手厚い加護を受けました。
親の不忠を、まさに命がけで挽回し、渡辺家繁栄の祖となった通を、元就は忘れませんでした。
2008年10月14日|
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