不遇の子

不遇の子

結城秀康という男をご存知か?
家康の次男でありながら、最も冷遇されたといわれている勇将である。
義に厚く仁に深く勇猛果敢。
しかし顔が不出来、そして家康が正室に内緒で手をつけた侍女の子ということで、不遇を味わった子供である。

32という若さで無くなった彼のことを大まかに紹介しよう。

秀康の母は、築山殿(家康正妻。日野富子と違った意味で愚妻の代名詞といわれる)の侍女であった。
正室とうまく言っておらず、さりげなく秀吉以上の女好きの家康はその侍女に手をつけた。
そうして生まれたのが、秀康である。

妻の悋気を恐れた家康は家臣に秀康を預けさせ、自分は一切の面倒を見なかった。
それはなにも比喩ではなく、3歳になるまで秀康は自分の父親の顔を知らなかったののだ。さらに幼名。信長と違いまともなネーミングセンスを持っていた家康は、秀康にだけ、雑魚の名前をつけている。ギギというナマズ科の雑魚である。家臣らはそんな名を呼べぬ、と於義丸様、と秀康を呼んだ。

3歳の秀康が家康と会った。
その機会を作ったのは長男である信康だ。弟の不遇を見かねた信康が父親と秀康を対面させたのだ。
だが、だからと言って不遇は続く。

そして時は駆け、長久手の戦い。
信康が家康により命を絶った徳川家では、秀康が第一後継者の地位にあった。
だが家康はそんな秀康を人質として秀吉に差し出し、以下、ギリギリ粘れるところまで秀吉の中央政権とは距離をとり続けた。
秀吉は懐柔策を用いらねば、何度もの上洛命令を跳ね除けている家康の養子は、その首がさらされてもおかしくない状況だったことを、付け加えておく。

父親の愛情を知らず育った秀康に、情をかけたのは、父の敵たる秀吉だった。
秀吉は実の父のように秀康に接し、周りにも公言した。
憶測になるが、父の情を知らぬ・・・・・・むしろ、冷ややかな目にさらされて生きてきた秀康は、何をおもったのだろうか。想像に難くないのではなかろうか。

秀康は秀吉の下、次々に武功をたて、その名を天下にしらしめてゆく。

そして秀吉の死去。
耐えに耐えた家康が人生最後で最大の大博打をする。
このとき、再び不遇なことに、秀康は三成と懇意だった。三成は確かに嫌われる人物(七本槍とか)には蛇蝎のごとく嫌われたが、すかれる人物にはとことん好かれる人物であり、太閤検地を推進していたため全国規模で人脈を築いていた。三成と懇意だったものの多くは中央政権になじまないものやいままで不遇な処遇を味わっていたものたちである。秀康は三成の護衛をしたさい、別れ形見に脇差を貰い受けた。

関が原で西軍が破れ、三成が処刑され、徳川の世になり、奸臣と三成が謗られるなか、秀康はついぞ忘れ形見を手放さなかったという。
だが朝鮮出兵で病を患った秀康は大阪の陣を迎える前になくなってしまう。

またかれは大金を溜め込んでいた、といううわさがあり、それを聞いた家康は秀康の死後、彼の城を洗いざらい探したが、ついぞ見つからなかった。

人は言う。
彼が生きていれば、あのような形で大阪の陣を開くことは無かった、と。

2008年10月14日|

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